江戸時代の北国街道と脇往還
~街道が生んだ風景と交流~

長浜市市民協働部 学芸専門監 太田浩司
2021.12.3  米原学びあいステーション

 北近江圏内の街道(古文書では"海道"と表記される事が多い)は、東は関ケ原、北は木之本、南は鳥居本を頂点とした三角形にかたちづくられ、その中は宮川(長浜市、旧宮川藩)を中心に、東に春照、西に長浜、南は米原、北には小谷城近辺の伊部を頂点とした十字にかたちづくられる街道が、地域の基幹交通路になっていた。
 "北国街道"の名称は時代により、又、地域により名称の変遷が見られる。十字の南北を貫く"小谷道"は、戦国時代には浅井氏居城に向かう故か、"北国街道"と称せられたし、"北国脇往還"は美濃から見れば、北陸に向かうため"北国街道"となる。
この街道で有名なのは秀吉の「美濃の大返し」であろう。13里(約52km)を5時間で駆け抜けたという。

 なお、"北国脇往還"は明治以降の呼称であり、江戸期は"北国道"と称せられた。
 今でこそ、道は、国道、県道、市町道、里道などに区分され、道幅は自動車の往来を中心に決められているが、江戸期には普通の街道は五尺道(約1.5m)で、荷駄の往来に必要な幅とされた。五街道はもっと広く取られたが、集落の中は三尺道で、現在でも自動車の往来に難儀するところは多い。

 市立長浜城歴史博物館所蔵の「長浜町絵図の世界」には、加賀前田家の参勤交代が(通常は越後廻り)自然災害による不通等のため北近江を通行した記録が残されている。
 また「佐々木家文書」の"北国脇往還"の野村で小休止した武士階級の記録や、「金沢・京都往復道中記」等の旅日記が残され、戦のない江戸期の通行模様が偲ばれる。